前編では、私が学校の卒業制作で作品を実際に修復する前段階までの話を書きましたが、後編では実際に行った修復過程を順を追って説明します。
基本的に修復には毎回同じように決まった手順というものは無く、作品の状態に応じて工程の優先順位を変えていかなければいけませんが、立体物の場合大体は表面のほこりを取り除くところから始まります。ほこりの除去にはやわらかいブラシと掃除機やミュージアムクリーナーを使う事が多いです。この作品の場合は、下地にしっかり張り付いていないパーツをクリーナーで吸い取ってしまう恐れがあったので、ホースの先にはストッキングをつけ、弱めの吸引力でブラシを使いながらほこりを除去しました。ブラシに金具がついている場合は、そこにマスキングテープを貼って、作品が傷つかないようにしたりもします。
パーツが無くなった部分の木の下地に膠とほこりが固まって残っていたので、簡単に拭き取れるものはコットンの綿を竹串の先端に巻き付けて、それを軽く水にしめしたものでふきとります。市販の綿棒も使いますが、自分でつくると頭の大きさや硬さが調節でき、また竹串も削ってアプローチしたい部分の細かさに合わせて工夫することができるので便利です。修復は、道具や方法の工夫が欠かせず、アイデア勝負のような所もあるので面白いです。
この作品の問題点は、下地は木で出来ていて、しかも3枚の板が継ぎ合わされていることです。どうして問題になるかというと、木は湿度によって微量に膨張収縮する反面、その上層の装飾(べっ甲と金属板)は同じように膨張収縮しないので、その齟齬が将来的に再度装飾が剥がれるリスク生み出してしまうからです。しかも板が3枚継ぎ合わされているので、さらに動きを与えてしまいます。これはどうしようも無いことなので、”inherent problem(内在する問題)” ということになります。その問題を最小限に抑えるために、パーツはHide Glueという動物(牛など)の皮や骨のコラーゲンから抽出された膠を使い接着しました。粘着力、引っ張りや押しに強いという理由からです。他に兎の膠の選択もありましたが、兎の膠の方が粘着力も引っ張りも弱いので今回採用しませんでした。
接着する際に接着するパーツが動かないように固定させる必要がありますが、その方法はいろいろあります。クランプや砂の入った布製の袋で重力を使って押すなどの方法もありますが、今回はピンポイントでの強めの圧力が必要だったので、日本でつかわれる”心張り(しんばり)” の方法を使いました。これは側面の抜けた木のボックスの天井と作品の間に竹ひごをしならせて張り、そのひごが戻ろうとする力で圧力をかけるというものです。ちなみにこの方法は私が日本人だから使用した訳ではなく、ヨーロッパでも使われていて、竹ひごの代わりに様々な素材の心張り棒が使われています。使う心張り棒の素材や高さで圧力を調整することが出来ます。
ベースの木と装飾部分の収縮度合いの違いの話をしましたが、ベースの木が収縮する為に、上層の装飾部分で隣の装飾パーツに乗り上げてしまう部分がでてしまいます。この部分をどう扱うのかには悩まされました。フラットにしたいけれどピースがそのまま入るスペースが無い。かといって、ピースを削って小さくすることはオリジナルの素材を失うことなので避けたい。苦肉の策は、熱で変形するべっ甲の性質を使って、引っかかって入らなくなっている部分の向きを微妙に変えて嵌め込むということでした。ギャップがあり詰められるところはスペースをつくって、アイロン型のはんだごてを使いながらべっ甲を微妙に押し元の場所に入るようになじります。変形は最小限にとどめて、どうしても入らない部分はパーツの欠損を避けるため、しっかり接着するよう膠の濃度を上げました。
このような “なにを良しとして、なにを良しとしないのか” の判断基準はエシック(倫理)と呼ばれ、チャーター(憲章)として世界基準で話し合われた方向性や方針が存在し、時代とともにアップデートされています。コンサベーション・エシック(修復倫理)というのですが、しかしこれは必ず守らなくてはいけない法でも法則でもなく、参考にするものです。エシックは、とてももやもやして答えがない部分が多くそれもまた面白いので、また別の記事で書きたいと思います。
べっ甲の欠損部分の補填は、べっ甲を使わず他の素材でつくることにしました。流通しているもので色が合うものを入手しにくいという事と、べっ甲の新規の輸出入の取引がワシントン条約によって禁止されているという理由からです。べっ甲に代わる素材で、バッファローの角のシートと、レジンの両方を試して見ました。レジンは好みの色が作りやすいのですが、薄さ0.6mmだと割れやすく、バッファローの角のシートを熱して圧縮機にかけ薄く伸ばした後に、染色したものを使用する事にしました。
新しいパーツの切り出しは、ジュエラーズソーと呼ばれるジュエリーをつくる際にメタルのシートの切り抜きに使われる糸のこを使用しました。糸のように張っている細い線には細かな歯がついていて、繊細な形が切り出せます。オリジナルの真鍮の色味に合わせて、新しい真鍮はアンモニアと樫の木くずで変色させました。オリジナルの方にはエングレービングといって細かい線彫が入っているのですが、それを表現するためにエッチングを利用して線を入れました。
装飾部分のパーツが全て埋まったら、次は表面のクリーニングをします。クリーニングの程度を決めるのは実はとても難しい問題です。例えば車の洗浄であればピカピカにすれば良いわけですが、アンティークをピカピカにすると場合によっては価値は下がってしまいます。経年変化による味のある風合いを “パティナ” と言いますが、どこまでが取り除くよごれでどこからが良しとされるパティナなのかは、ここという客観的地点が無く、どうしても主観的にならざるをえません。いくつかテストで色味をクライアントに提示して決めて行く、もしくはコンサバターの判断に任せられるということになります。
べっ甲は水を含めたコットン綿でクリーニング出来ましたが、問題はメタルです。パティナの色が沈んでいて模様が読み取りずらいという理由から明るさを上げることにしたのですが、溶剤では明度に変化が無く、テストの結果EDTA(エチレンジアミン四酢酸)と呼ばれるものを水で薄めたものが有効だと分かりました。しかし、水溶液だとコントロールしにくいので、寒天状のシートにしてメタルの上に乗せる形にしました(写真上参照)。乗せる時間によってクリーニングの度合いが変わりますが、30秒長いか短いかで、クリーニング出来ないかし過ぎになってしまうような慎重な作業で一番緊張した部分です。クリーニングが足りない場合はまだ良いのですが、クリーニングしすぎると拭ってしまった時間の蓄積はもう元には戻りません。
最後に、レジンのコーティングをエアーブラシで吹き付ける事にしましたが、ここで使用した溶剤がキシレンという有害性のあるものだったので、換気設備のある実験用のボックスでの作業となりました。この溶剤を使った理由は、キシレンは揮発性が低く、レジンがゆっくり定着されるからです。それはどういうことかと言うと、ゆっくり定着する間に吹き付けたレジンが重力でフラットになるということで、それによって吹き付けたレジンの粒々感が消えクリアーで均一なコーティングになります。効果と安全性はいつも天秤にかけないといけませんが、使用の際に自分や周りの安全性が確保できない場合は、効果があっても使わないというのは鉄則です。
いまこうして振り返ってみると、学校というのは設備も素材もかけられる時間も贅沢だったと気づきます。その後美術館やプライベートの修復工房でも働きましたが、プライベートの修復工房は特にテストに多くの時間をかけていられないので、ある程度で判断、決断しないといけません。しかし修復に使う材料や方法は “どうしてそれを使ったか”を納得できるように説明しなければいけないし、”なぜそうしたのか”の修復理念や倫理の方は、ロジカルに説明することが求められるので、バランスがなかなか難しいです。
修復で対峙する作品は厳密にいえば毎回新しいものです。ですから経験則は活かせるものの、それだけでは見えていない部分が多くあるものです。テストをし情報を集め、関わる人たちと対話しながら、今現在の最善策を導き出します。そんな毎回新しくぶつかる問題解決が、修復の難しくもあり楽しいところなのかも知れません。
森尾さゆり コンサバター(保存修復師)
東京都出身。2007年ロンドンに移住。セントラルセントマーティンズでガラスアートを学んだ後、モザイク工房に 6年間勤務。2015年よりシティー&ギルド・ロンドンアートスクールにて、修復を学ぶ。2017年に大英博物館でインターン。ビクトリア&アルバートミュージアムの彫刻修復室に2年勤務。専門は、石、木や石膏などの立体物、ギルディング、額縁等。2021年夏、帰国。