以前、子どもたちに向けたアメリカの職業紹介の資料を見て、大変驚かされたことがあった。たくさんの職業の中に、コンサバター(保存修復師)の仕事が紹介されていたことがまず驚きで、向いている人の欄に “アートとサイエンスが好きな人” とあった。実際私が修復を学んだコースに、アートとサイエンスが好きだからという理由で入ってきた当時19歳のクラスメートがいた事を思い出す。
どんな仕事も行為も何かと何かのあいだに成立している。今回はコンサベーションにまつわる “あいだ” を、アートとサイエンス、ものと人、過去と未来、そして保存と活用をテーマに書いてみたいと思う。
アートとサイエンスのあいだ
修復にサイエンスが必要と言われると、意外かもしれない。私もコンサバターになろうと学校に行くことを決めるまで、そんなことは思いもしなかった。サイエンスといっても、どちらかと言うと化学の領域かもしれない。例えば、よごれが落ちるということや、劣化のメカニズムについて、化学的に分子のレベルで何が起こっているかを理解することは、修復方針の設計や使用する材料の選択の際に役立つ。また、材料や方法のテストを行う際には、科学的な考え方や段階を追う必要もある。
一方、扱うものはアートなので、科学的には割り切れない曖昧さをふくんでいる。無形とか、目に見えないと言っても良いかも知れない。それは例えば、歴史であったり、感情や思想、文化や生活などで、作品に付随するさまざまな価値は時代と共に変化している。サイエンスに対してアートと言ったが、コンサバターが扱うものはいわゆるアートには収まりきれず実に様々だ。伝統工芸から現代アート、考古学的資料から工業的なプロダクトまで。どんなものを扱うにしても、科学的知見を根拠にしながら、ものを “Respect” することがコンサバターとして必要なのだろう。それでこそものに丁寧に向き合うことができる。
ものと人のあいだ
ものへのリスペクトの話をしたが、私はものから色々なものを読み取るのが好きだ。例えば木の彫刻からは、どんなノミをどんな角度でつかったのか想像できるかもしれないし、僅かに溝に残った顔料からはかつての着色の歴史がひも解かれるかもしれない。手あかで黒くなっているところはたくさんの人が触れただろうし、年輪の様子からはどんな環境で育った木か推測できるかもしれない。それはものと対話するようでもあり、同時にものを通してそれに関わった人や環境を想像することでもある。
コンサベーションには、ものと人とのあいだに2種類の関わり方があるように私は思っている。劣化や破損により本来の姿や価値が伝わらなくなっている状態のものに、適切な処置を施すことによって、ものへのアクセスを可能にすること。要するに、ものを修復すること。もう一つは、人がものから価値を見つけだして受け取れるように、工夫したり、またその力を人の中に育んだりして、人がものにアクセスできるようにすること。それは教育普及かも知れないし、ガイドやキャプションかも知れない。そもそも価値というものは、もの自体に内在しているものでは無くて、ものと人とのあいだに生まれるものだと思う。そしてコンサバターは、もの自体を保存しているのではなくて、その価値を保存しようとしている。だとしたら、ものから価値を見つけ出そうとする後者もコンサバターの関わり得る分野であるように私は思う。
過去と未来のあいだ
修復し保存されるものたちは、過去につくられたものだが、保存する目的は未来のためだ。コンサベーションの面白さ、難しさのひとつは、修復方針の設計だろう。例えば、使っていた時計が故障してそれを直してほしい場合、修理屋さんに持って行って直してもらう。その場合の目的は直して使用したいわけだから、それは機能の回復だろう。そして、保存したい価値は “使用価値” となる。
アンティークの椅子はどうだろう?足が一本短いとする。他の足に揃えて不足分を付け足すことは、良い事だろうか、悪いことだろうか?上記のように使用価値が大事な場合、それは方針として良いだろう。なぜなら、足が一本短いと椅子に座れないからだ。しかしこれが美術館の展示物だとすると、話は違う。ここで大事になって来るのは、使用価値では無くて、鑑賞するような美的価値、もしくは美術史の例となるような歴史的価値が重要かもしれない。歴史的価値のあるものに、現代につくったパーツを付属することはどう影響するか考慮しないといけないし、付け足さない場合それをどう展示するか、美的な見え方も考えないといけない。なので、方針として良いか悪いかは、修復することで何を達成したいかの目的による。過去につくられたものを、未来のために、何の価値をどう残したいかを検討する必要がある。
保存と活用のあいだ
保存と活用というのは、コンサベーションの観点から言って、基本的に相容れない関係だ。活用したら保存できないし、だからと言って保存を最重要視すると活用が出来ない。活用という言葉はどこかしら “利用する” というニュアンスがあるので、それよりも何か良い言い方があるのではないかと個人的に思うが、重要な事はものが “活きる” ということだと考える。人が”残す”ということと、ものが”活きる” ということ。
私はものに触れたいからコンサバターになったところがあって、ものに触れながら何十時間もひとつの作品とすごし、詳細に観察しながらさまざまな情報や物語を読みとっていくのは、私にとってとてもぞくぞくする魅力的なプロセスだ。ガラスの向こう側にある博物館や美術館にある作品や資料に、多くの人が触れる体験が出来ればよいが、触るということはダメージや劣化につながってしまう場合が多い。触るということで起こり得るダメージと、触ることで得られる感動や学びは、どのようにバランスをとっていったらよいのだろう。
あいだのゆらぎ
修復にまつわる “あいだ” について書いてきたが、あいだというのは曖昧なものだ。どっちつかずでうろうろする。コンサベーションで難しいのは、何かひとつを選択すること。最終的には決断して、それを実践しないといけない。明らかにひとつの最適解があればいいが、大体はそれぞれのチョイスに一長一短がある。リスクと効果を考えないといけないし、今の最適解が10年後も最適とは限らない。というわけで、”あいだ” にはいつも問いが生れる。どうするべきか分からないから、自分一人で決めきれない。だから、所有者や仲間との対話や相談、リサーチやテストを経て、だんだん方向性をみつけるプロセスが、私は面白いところだと思う。
森尾さゆり コンサバター(保存修復師)
東京都出身。2007年ロンドンに移住。セントラルセントマーティンズでガラスアートを学んだ後、モザイク工房に 6年間勤務。2015年よりシティー&ギルド・ロンドンアートスクールにて、修復を学ぶ。2017年に大英博物館でインターン。ビクトリア&アルバートミュージアムの彫刻修復室に2年勤務。専門は、石、木や石膏などの立体物、ギルディング、額縁等。2021年夏、帰国。