私は、ロンドン中心部にある シティ・アンド・ギルズ・オブ・ロンドン美術学校で、3年間修復を学びました。この美術学校は、1854年に設立され、イギリス国内で最も長い歴史を持つ美術学校の一つです。今回この記事でご紹介したいのは、私が卒業制作として修復したレタートレーなのですが、その前に、コンサバター育成として学校ではどのようなことを学ぶのか、すこし説明したいと思います。
私は主に立体物や建築装飾の修復を学んだのですが、面白いのは修復コースがあるエリアに、歴史的建築物の石材や木材の職人育成のコースが隣り合ってあることでした。つくるという事と修復するということが共にあるのがこのコースの特色で、1年次には制作工程の体験を通して、つくることの理解に重点を置きます。これは修復するには、制作する工程やつくり手の感覚を理解するべきという理念からで、石や木を彫った他、石膏キャストや、ギルディングと言われる金箔押し、フレスコやテンペラも制作しました。観るということを学ぶためにデッサンにかける時間も多く、V&Aで一つの作品を5日かけてデッサンしたこともありました。
また、意外と思われるかもしれませんが、修復は化学の理解を必要とするところがあります。修復はアートとサイエンスのあいだとよく言われますが、授業では化学も多くありました。それは例えば “どうやって汚れは落ちるのか?” とか “どうしてプラスチックは黄色く変化するのか?” を理解したり、どの溶剤や接着剤をつかうのかという、材料の選定においてロジカルに考えるのに役立ちます。その他、修復理念やエシック(倫理)というものを学びます。エシックとは何かというと、どんな保存や修復を “良し” とするのかという規範や方針のことです。国際的にはチャーター(憲章)と言って、国際基準で話し合われ合意されたものがあります。
2年次には、実際に作品の修復プロジェクトを経験することを通して、さらに化学や修復技法をより実践的に学んだり、記録のとり方、資料の作成を実践します。3年次には論文と卒業制作として2つ作品を修復し、木と石ベースの作品をそれぞれひとつづつ課題として与えられましたが、今回は私が修復したレタートレーをご紹介したいと思います。
このレタートレーはマーケトリーという技法でつくられています。マーケトリーとは、木材を中心に、象牙、べっ甲、真鍮などを薄いシート状にしたものから模様を切り出して木の支持体に張り付けて装飾を施す技法で、家具や装飾小物、自立する絵画パネルなどに使われます。ここで紹介するトレーは、 べっ甲と真鍮、ピューターといわれる錫ベースの合金で模様が施されています。
17世紀にフランス王室ご用達の家具職人だったアンドレ・シャルル・ブールがその技法を洗練し確立したので、”ブール・マーケトリー”もしくは”ブール”と呼ばれます。この作品は、イングランド歴史的建造物記念物委員会が定める建築物の中でも一番重要度の高いグレード Iに指定されているカントリーハウスの所蔵品なのですが、3年次のはじめに、このカントリーハウスに伺い実際にこの作品を見たときは、手の込んだ装飾の細かさにWow!と思ったと同時に、ねじれた感じで剝がれかかっている真鍮のピースや欠損の多さに、私の手に負えるのだろうかと少々怖気づいたのを覚えています。
所蔵者の要望は木のベースから剥がれそうになっているピースをすべてもとに戻すこと、欠損しているピースを補填すること、全体的なクリーニングとコーティングを施すこと、この3点でした。修復後この作品は、将来的に展示されるかも知れないけれど、とりあえずは建物内にある収蔵庫に保管される予定だとのことでした。
歴史的背景や使われている技法、所有者の歴史などのリサーチをしつつ、まずは作品のコンディションチェック(作品の保存状態の点検)をします。細かく観察しながら修復課題を洗い出し、問題の緊急度合いや優先順位を決めるものですが、私はこの観察する時間がとても好きです。目でスキャンするように見逃しが無いように順に見ていきます。真鍮に入った細かな傷、ピューターのくすみ、ベニヤの剥がれ、一部分に不思議なべっ甲の劣化—— ピースが剥がれた所に赤い顔料が残っていたり、べっ甲のふちに不思議な針穴のようなものが見受けられたり、裏面はなぜか三分の一だけ色が薄くなっている。観察したことは “なぜ?” と問いになると同時に、推測しながらさらに観察を続けます。リサーチやテストで後に分かってきたり繋がったりするととても楽しく、観察と推測を行き来するちょっと探偵的要素のあるプロセスです。
作品に使われている素材は資料に残っている場合もあれば、全く分からない場合もあり、必要に応じて分析を行います。例えばこの作品に見られた赤い顔料は、べっ甲が鮮やかに見えるように裏面に塗られたものですが、顕微鏡で分析した結果、2種類の違う顔料が発見されました。シナバー(辰砂)という鉱物を砕いた顔料と、人工的に作られたバーミリオン。後者は顔料の粒がとても細かく、断定はできないけれど粗い目のシナバーよりも年代が新しい場合が多いようです。前者はトレーの中央部分に、後者はふちの部分に多く見られたことから、トレイの中央パネルは既存のものから切り取られて19世紀にふちを付けてレタートレーに仕立てられたのでは?という推測も成り立ちます。
ちなみにコンサベーションでは、オリジナルから小さなサンプルを採取する場合、例え1㎜以下のサイズでも”destructive(破壊的)” と見なすので、もしサンプルの採取を必要としない non-destructive の方法(例えば紫外線を使って色の変化で素材を特定するなど)があるのなら、その方が好ましいとされます。素材や状態の詳細な分析は、教育機関や美術館など設備がある場所では行われますが、プライベートの修復工房などでは簡易なもので対応したり、もしくは経験則で推測したりします。
この作品の修復では、将来展示されることも念頭に置きつつ、ケアされてアンティークとして鑑賞されるのに堪えうる状態にすることを修復目的としました。それはどのような状態かと言うと、欠けているピースが無く本来の模様がきちんと読み取れるということ、アンティークとして年代を感じさせるものの、本来の素材の魅力を取り戻している状態のことです。
これは修復一般の話ですが、この修復目的によって修復内容と程度が変わって来るので、”何を達成するための修復か?” をステークホルダーと話し合うのは大事なことです。例えば、美術館に展示されるものと教会に置かれるものでは用途が異なります。鑑賞されるものなのか、信仰されるものなのかでは必要な修復の方向性も程度も違いますし、置かれる環境が違うので使う素材も異なってきます。また、展示されるものなのか使用されるものなのかでも、強度の必要性の有無や修復で介入する程度が違います。修復には一つのスタンダードがあって、それに沿って修復すると思われるかもしれませんが、コンサベーションは、達成する目的に合わせて最適の方法や素材を考えていくプロセスが大事です。
では、どうやって修復の最適解を見つけていくのか?それが面白いところです。コンサベーションは良くアートとサイエンスのあいだと言われますが、クリーニングに使う溶剤や方法を決めるために、溶解テストやクリーニングテストをしますし、論文を読んで既になされたプロジェクトから例を引いてくる場合もあります。そして修復の最適解には、エシックと言われる倫理も入ってきます。例えば、肖像の欠けている鼻をつくってつけるのは良いのか、悪いのか?、画家自身が塗ったコーティングが黄ばんで絵が見えにくくなっているけれど、除去するのか否か?
そして最適を見つけるためには、対話することが大事です。なぜなら、ひとりで持てる視点は限られているからです。他の人の意見を聞いて、持っていなかった視点に気づくこと、素材や方法に関するプラスとマイナスの両面を知ること、多様な側面を加味した上で、この修復の場合は何が最適かを見つけていきます。
このプロセスについての続きは、他の記事でいつか書きたいと思いますが、後編では、実際に実施した修復の作業工程を追ってご紹介したいと思います。
森尾さゆり コンサバター(保存修復師)
東京都出身。2007年ロンドンに移住。セントラルセントマーティンズでガラスアートを学んだ後、モザイク工房に 6年間勤務。2015年よりシティー&ギルド・ロンドンアートスクールにて、修復を学ぶ。2017年に大英博物館でインターン。ビクトリア&アルバートミュージアムの彫刻修復室に2年勤務。専門は、石、木や石膏などの立体物、ギルディング、額縁等。2021年夏、帰国。