【修復の話 1】ものとの対話

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森尾さゆり コンサバター(保存修復師)

東京都出身。2007年ロンドンに移住。セントラルセントマーティンズでガラスアートを学んだ後、モザイク工房に 6年間勤務。2015年よりシティー&ギルド・ロンドンアートスクールにて、修復を学ぶ。2017年に大英博物館でインターン。ビクトリア&アルバートミュージアムの彫刻修復室に2年勤務。専門は、石、木や石膏などの立体物、ギルディング、額縁等。2021年夏、帰国。  

劣化を眺める

絵画の展示を見に行くと、どうしても額縁を見てしまう。金箔の剥がれ具合や、装飾の微妙なズレ、木に入ったクラックや、埋められた穴だとか。ここは修復されたな、ここで金箔が継ぎ足されたんだなと確認してしまう。壁面にはどうフックされているのだろう、下はどうなっているのだろうと気になって、後ろを見たりちらっと下を見たりするので、スタッフの方に怪しまれる。

私は、経年劣化を眺めるのが好きだ。なので、作品のコンディションチェックが修復の仕事では一番好きかも知れない。細かいクラックや、ペイントの剥がれ、摩耗した所やダメージのある所。これはどうしてここだけ黒いのか、何故このヒビは入ったのか、左下だけすれた跡があるのは何故か。端から端、裏側や底までメカニカルに観察しながら、この作品が経験してきた歴史を追う。もしかしたら床が湿っていたのではないか、お掃除の方が手の届く範囲の下の部分だけ乾拭きしたから、ここだけ摩耗しているのではないか、中の鉄が錆びて膨張したからヒビが入ったのではないか。コンサバターの仕事は、見える痕跡から推測したりするので、どこかしら探偵的なところもある。

私は修復する時、ものと”対話”しているように感じる。実際に話しかけるわけではないが、そう表現するのが一番しっくりくる。湿度に反応する木の僅かな膨張や収縮だとか、劣化した大理石の脆さを見ると、環境に従順に反応する物質の世界や、何十年何百年という時の流れでゆっくり進んできた劣化が、なんだか愛おしくなる。歴史にふれるという言い方があるけれど、文字通り歴史にさわる事ができるのがコンサバターの役得だと思う。途中で集中力が切れたのか、脱線した下書きの刻線に人間味を感じたり、石膏作品の裏側に手で大きく石膏を搔き出した跡を見つけると、かつていた人の動きが見える様で、百年二百年という時間の現実味に、なんだかため息がでる。そんな多くを含んだものを、触ったり撫でたりするのが好きだ。

こんなだから道を歩いていても、木肌の剥がれだとかコンクリートのクラックだとかが目に入って、想像で修復してしまったりする。これは、他のコンサバターの方もよくやってしまうらしい。剥がれているものは戻したく、クラックは埋めたくなってしまうのだ。

考えながら観る

もののコンディションチェックをする時は、やはり鑑賞する時の感じとは違う。どちらかというと探索という感じだろうか。一定の方法で、見逃しがないように目でスキャンしていくとも言えるかも知れない。彫刻作品のコンディションチェックは、構造などの大きな問題から表面上の細かな問題へと、内から外に見ていく。内から見ると言っても、見ることの出来ない場合は外部に表れている事象から推測したりするわけだが、場合によっては点検が全て終わった後にX線で内部を確認したり、簡易に金属探知機が使われたりする。観察しながら、同時に推測をたてる。裏で支えている木のサポートが反ったのでクラックが入ったのではないか、石膏作品の表面にオレンジ色のシミがあるので、中に鉄の芯が入っていてそれが錆びているのではないか。

そうして順に表面に移っていく。よく触れられる箇所は摩耗していたり、コーティングが黄変していたり、ポリクロミ―が剥がれていたり。ペイントの跳ねは、かつて壁のペンキ塗り替え時に飛び散ったものかも知れないし、他と艶が異なる箇所は過去に修復されたからかも知れない。

ものの不思議

ものというのは不思議だなぁと、つくづく想う時がある。例えば部屋の中にあるどれ一つをとっても、そこにある為にはそれまでの歴史がある。買った場所があって、売った人がいて、運んだ人がいて、つくった人がいて。その先には素材の歴史があって、地球の歴史がある。買った理由があって、思い出があって、そんなものを全部含んで今ここにあったりする。そのどれが無くても、ここにこの状態で存在しない。普段このような事はあまり気にかけないけれど、ものが経験してきた歴史の視点で心を少し遠くに向けることは、修復をすることで深まった気がするし、美術館や博物館はそんな視点を促すような仕掛けがある所かも知れない。

修復にかける時間はプロジェクトによって違うが、例えば一つの作品と40時間、60時間と一緒に過ごしながら、そんなことを推測したり、想像したり、対話しながらものと関わると、だんだん愛着が湧いてくる。修復が終了して手を離れる時などは、なんだか物悲しい。あんなに近しかったものが、ライトに当たってガラスケースの向こうに展示されていると、もう届かないような、でも知らない秘密を知っているような複雑な気持ちになる。

どうしてものに対して愛着を持つのだろうか、私たちが作品や資料から受け取るものって何だろうか。コンサバターは一体何を何の為に保存しているのだろうか—— 私にはいつも思い出す言葉がある。よく観察出来る人が良いコンサバターになると、私の尊敬する方から言われたこと。そして、ものをリスペクトする姿勢がコンサバターには一番大事と教わったこと。ものをリスペクトするからコンサバターはコンサバターになりたいと思ったのだろうし、リスペクトするからきっとよく観るのだろう。日本にはもともと、ものへの敬意を持つ国民性がある。日本人のものや素材や道具に対する感覚がずっと気になっていて、そんなことも深堀り出来たら良い。  

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